ぽん'sルーム
わりと大はしゃぎ系ぽんずと、ぽん's愉快で愛しい仲間たちとの素敵な日常をぽちぽつぽちぽつ語った日記。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
忌み子なのか神様なのか
さてさて、クッキーを焼こうとして、
お砂糖たっぷりメレンゲとアーモンドを、
にゃんと足の甲と、お気に入りミュールにこぼしてしまうぽんずです。。。
\(゜ロ\)(/ロ゜)/うわーん
ご無沙汰しておりますごきげんよう…(しょぼん)
ピンクのキラキラミュール、お気に入りなのに…
夏場に元気な蟻さんに大好評。(嬉しくないよ!)
(笑)






とりあえず、今一番観たい映画のお話をします。
「エマニュエルの贈りもの」





発展途上国に分類される国で、身体にハンディキャップを背負って生活するということの困難さ、
困難であるからこそ、それを乗り越えることの尊さ、
その尊さが、全世界に与えた影響。
それらのことの一端に触れさせてくれそうな映画だと思います。
(まだ公開されてないし観てないからわかんないけど☆)






場所はアフリカ西部、比較的穏やかな国政状態が続いているガーナ共和国。
(日本へのカカオの輸出で有名ですが、あたしがチョコ好きなことを差し引いても、純粋にこの物語自体に興味がある、ってゆう理由です!!ここ強調!! 笑)






この地域で、「ハンディキャップをもつ=ほかのひとと違う」、このことは、両親の前世の行いが悪いとか風俗的な理由で、人々から差別の目が向けられ、「呪われた子」「忌み子」と称される理由となってしまいます。
この地域で、生まれつきハンディキャップを持って生まれたエマニュエル少年の、キラキラな夢に溢れた物語です。
たぶん、ってゆうか予告から判断するとハッピーエンドな筈!!





あ、忘れないうちにむっく嬢とひある☆ろん氏に対するこめんとばっく

>むっく嬢
3度の飯より4度のおやつでも心配してくれて有難う
むっくのほうがそりゃあもぉ忙しいだろうけど、むっくもごはん食べてね

>ひある☆ろん氏
じゃあ、今後の表記は「とてつもなく変なお兄ちゃん」で。




一方、あたしが高校2年生のとき(懐かしー
)に研修旅行で訪れた北海道で、アイヌ民族のおっちゃんが教えてくれたことのなかで、一番印象に残ったことがあります。




「ここの習慣では、生まれつきハンディキャップを負っている人や、痴呆症が進行した老人たちのことを、神様に近くなったといいます。
ほら、脳に障害があったり、痴呆症が進行したりすると、話す言葉が普通のひととは少し変わっているでしょう??
「普通のひとと違う」このことを、我々は「神様に近くなった」と形容し、とても大切に敬います。」







大抵の場合、(勿論全員が全員、というわけではないにしろ)
「ほかの人の違う」このことを、



ガーナ共和国の文化では、「呪われた子」「忌み子」と称され、村社会で除け者にされる対象となります。
アイヌ民族の文化は、「神様に近くなった」と、敬い、ほんとうに大切にされます。



さぁ、日本、ってゆうか、私達の文化では、どうなのでしょうか??





確かに、「文化は多様なものであって、その文化自体に優れているも劣っているもない」
とゆうのも一般的な見解の1つです。






ただし、あたし基準にのみ依拠した場合には、「悪い文化」っていう言葉が、あたしの気持ち・価値観のなかに、どうしても存在しちゃうんです。
払拭しきれない、気持ちがあるんです。






元コートジボワール大使むっく嬢@島根は、大使ってゆう立場を離れた今、アフリカの女性性器切除ってゆう文化は、むっく基準にのみ依拠した場合に、どう思うの??




あずまっくすでぃれくは、あずまっくす基準にのみ依拠した場合に、「悪い文化」って思う文化はないの??




「西アフリカのチョコレート産業における児童労働」は、「仕方ない文化」「悪い文化」
半々と読み取れる結果に、ちょっと驚きつつちょっと納得。
(2007年6月12日うちのゼミ、あたしの発表後のコメントシート統計による)




みなさまのなかには、「悪い文化」って、存在しますか??
スポンサーサイト

テーマ:思考回路 - ジャンル:ブログ

コメント
この記事へのコメント
う~ん
前世の行いが悪いとそもそも人間に生まれてこんとか言うはずやったと思うが・・・
う~ん・・・
2007/06/18(月) 00:03:45 | URL | マメゾウ #RgJkdVwI[ 編集]
にょほ。
>元コートジボワール大使むっく嬢@島根は、大使ってゆう立場を離れた今、アフリカの女性性器切除ってゆう文化は、むっく基準にのみ依拠した場合に、どう思うの??

完全むっく基準で話すならば,想像の及ばない恐怖感と嫌悪感があるよ。
たださ,絶対にしたくないと思ってるのがさ,
“私は女性/フェミニストだから,コートジボアールのFGMを受けた女性のつらさがよく解る!絶対になくさなければ!”
みたいな考え方は,したくないと思うのだ(むっくが女性かどうかとかフェミニストかどうかは置いといてね)
同じカテゴリーに属してたら理解できるの?って考えたら,待て待てむっくはそもそもFGMを受けたこともなければFGMを受けなきゃ差別される社会に生きてもいない,っていう意味で別カテゴリーじゃん。
っていうか全く同じカテゴリーに属することなんかできないんだから,自分の属するカテゴリー,アイデンティティを“共感”の信憑性の絶対基準にするのは,危険だし傲慢かな,と.

結婚が美徳とされる社会においては結婚しなきゃというプレッシャーが個人に対してかかるのと同時に結婚に対する憧れなんかも個人の中で醸成されてる.
しとやかな女性が持て囃される社会では,女性にしとやかさが強制されるのと同時に“しとやかでありたい”“しとやかになれない自分は駄目なんだ”っていう気持ちも涵養される.
プレッシャー,構造的暴力を指摘することはできるけれど,同時に“じゃぁ,当の本人はどう思ってるの”っていう視点は完全には無視できないよね.
それじゃ,ナンセンス,結婚やしとやかさを共用する社会と同じくらいその指摘は傲慢だ.
どちらも大切なことなんだと思う.
考えうる情報を個人が得られてさ,その中で選択できたらさ,いいと思うのだ。
あぁ自分はこういう狭い社会の狭い価値観に縛られて生きているんだな,という自覚.
ただ,そんな個人(本人)の価値観というのは個人を育ててきた環境や社会によって形成されるから,情報さえきちんと与えれば後は完全に個人の選択に責任があるかといえばそんなことはない,なんか違う,それはシステムを無視していると思う。

結論は,解んないんだ。
傲慢にはなりたくないけど,傲慢になることを恐れて生死に関わる慣習(でない場合もあるけど)が続いている状況を見過ごすことは基本的人権をないがしろにしているのと同じなのかな,と.
じゃぁ,人権と文化的多様性はどちらが優先されるの?
生存権と文化的多様性は?
本人がその慣習を許容している場合,でも生死の危険に関わる慣習である場合,本人の意思は何処まで尊重されるの?
解らない.
本人にとって何が一番しあわせなのか。
構造的暴力の中に浸って短命で人生を終えたり可能性を狭めたまま狭い可能性の中で人生を全うすることがしあわせなのかもしれない.
解らない,のです.

ひとつ言えることは,考えることは無力かもしれないけれど無意味ではないのじゃないかな,ということなんだけどね。
2007/06/18(月) 14:10:55 | URL | むっく #O5eaMtJo[ 編集]
違う文化を否定することは、したくなくても時にはしてしまいがちだから気をつけたいですね。

追記:10時と3時にお菓子を食べる文化って、いい文化だね。日本の農家のお菓子に対する情熱は世界レベルかも。
2007/06/19(火) 18:36:22 | URL | をまつ #448uUUYs[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://bpf0095.blog38.fc2.com/tb.php/139-0cbe40b1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。